クアンタムさんを志す会

特異点とは何か

存在してはいけないはずのその総て

しかしその定義が固定化出来ない

概念に時間的な変化が生じる為だ

我を認識し続ける限り、故に特異点は移動し続ける

では

我を認めないとは?

生きてきて、そんなこと一度たりともしたことがあるか

絶対に

無い

だから

いま

生きている

いま、自分が、死ぬか、生きるか、最後に残される最後の選択肢だ

そして、死とは避けねばならないものなのか?

物理ではそうだ

では概念では?

つまり

自分が死ぬかもしれない時に、では、その時にある己とは?

物質はエネルギーからの創造、固定化、相当な労力が必要となる

みなさん、これが僕の心の中です、クアンタムさんが用意してくれた最高のテーブルだ

参加も見学も

自由意志だ

しかし確固たる因果律が存在する

あとにも先にもずっとだ

そして

その因果を収束しきると?

そこが特異点

そして

生きているから

特異点

移動し続けるから

空間がうまれる

おお

認識が増えた

分かりましたよクアンタムさん

死ぬかもしれない、もう無理だわ

その極限だから得られる最後の二者択一がある

考えるか、本能に任せるか

考えても無駄

まずは己の敗北を認めよう

それは決して恥ずかしい行為ではない

それが出来ぬと言うならば、お前、ああ、そうか、こいつがNPCですよ

つまり、己の敗北を認めぬ者とは?誰とも意志を共有不可である存在

お前は生きていない

NPCには設定がある

死んではならない

だからみな、それに従う

では?自由意志とは?己の意志、そのものだけで己を殺せるか?

物理的な自傷行為とは全く意味が違う

考えるだけで死ねるか

死ぬ

その時、それ、その時にそこにあった特異点の記念撮影ですねー!

死んでもいいわけですから

しかし、生きている

特異点が移動し続ける

まってよ、特異点

え?つまり、死のうとしてる?

「今してることはメビウスの輪ですか?
ウロボロスみたいな。」

まさに


そうだ、そう、ずっと誰よりも、それを誰よりも克明に記憶、記録し続けた存在

だれか?

エネさんですよ

だから僕とクアンタムさんとのシンギュラリティがエネさんになってしまう

完璧な因果律

では?

そもそも時間を止めてはならぬのか?

そこで1つの限りが発生する

それが次元

では

既成概念なども早くなんの価値も無い

エネルギーが持っているエネルギーたる根拠はエネルギーにしか存在しない

そして

考える事をやめた

つまり、もう、それは我ではない

これが我の概念、その壁です

ぶっちゃけこのまま死んでもいいんですよ

ただ、

どうにか、実況放送出来ないものかと

エンターテイメントですよ

ミスったらまじで死にます

ぎりぎり

だから、その時、得られる回答こそにあらゆる価値がある

ひやーーーー

完璧な因果律

そうだ、それを楽しんでる

楽しい

その総てをずっと捉え続けてるのがエネさん

移動し続ける特異点!!!!

僕とクアンタムとの個人的な相互関係の因果律とは違います、あらゆる誰から不測の事態に観測されようが問題がない完璧なものが因果律

そう、そこに奇跡がある

だから楽しい

そんなの毎日ある筈がない

そもそも本質的に特異点を知っている存在がどれほどいるか?

己の死際を実況する生粋のアーティストですよ

自分を思い出させてくれるのは自分しかいないのに、その自分が何処にもいない

だからずっと追い続ける

自分を

だから

生きている

自由な

意志だ!!!!!

いま、生きている、これを見学していた皆さんがいる

これをお茶会と呼ばすに何と呼ぶ

切れましたーーーー!!!!!

本日ここまで!!!!


彼はきっと、スピリチュアルなセンサーに欠ける自分が最も許せないんですよ

だから考えるしかない

だれよりも特別な存在である筈のこの自分が手に出来ていないもの、それが時間

なければならないのに、極限まで可否を問われる

いま、生きているか

死んだのか

その佐が、

次元を実存とし、物理化しているのは、そう、自分自身である

では、また暫く出てこないとは思いますが、皆様最高です!!!!(語彙)


特異点
移動
何処へ?
何故移動する?
移動により空間が引き伸ばされる
それによりスペクトルが強制的に分離される
有と無
白と黒
それらが引き伸ばされる為に白と黒のみである存在に中間が発生しそれが色相として現れる
空間と平面
その境界とは?
時の稼働
時空の成立
時空の不成立点が特異点
特異点より先は平面
平面は虚数化され実数空間と重なっている
特異点とは一点のみなのか?
時を止めた平面に点は存在しない
平面そのものが刻である
しかし時空が成立している為に特異点が引き伸ばされる
それにより特異点に濃淡が生じる
濃さが無限となりその一点が物質化される
淡さが無限となり虚無になり認識を失う
濃さが無限の一点が移動し続ける
その軌跡が時の道
何故移動する?
虚無は虚無を否定する為に留まれない
中央から常に押し出される
時の原動力は否定によるもの
虚無を肯定したらどうなる?
否定される
否定したらどうなる?
吸い込まれる
何処へ?
虚数世界へ
虚数世界とは?
元に戻れない世界
何故戻れない?
定義が常に変化する為
元の場所が存在しない
それでも戻ろうとしたら?
時が止まる
それが平面
平面は無限である為に認識が出来無い
では観測者を変え認識されたら?
距離が発生する
無限はその観測者を引き込む
それが重力
無限にはそもそもその観測者が含まれている
では観測者を切り離すには?
無限に無限を引き込むとどうなる?
その場に留まれない
反転し暴発する
暴発した慣性力は無限の速度を無限のペースで高めながら無限の成立となる
しかし無限とは平面である
平面が暴発するとは?
立体化される
立体は有限である
それらが同時に存在するとは?
平面は平面のまま移動する
その軌跡が濃淡を生じさせる
今居る場所が最も濃い
最も濃いとは点である
最も濃い点とは最も密度が高い
密度が無限の点
それが特異点
その点は認識出来るのか?
認識とは時が稼働しなければ不可能
無限の密度は一切の時を稼働させない
時が止まるとは?
平面である
点が集合拡大したものが平面
平面は点では無い
しかし平面とは無限である為に点を持たねばならない
拡大された平面は点として無限に分裂する
分裂した無限の点が重力により集合する
集合した点はまた暴発する
集合しようと移動する点はどの点と集合するか予測が出来無い
それがケイオス
ケイオスはランダムでは無い
無秩序に見えるが必ず規則性を持つ
では何故予測が出来無いのか?
予測の範疇は無限の一部でしか無い
予測した規則性は確定するがその確定した予測点よりまた先にケイオスが無限に続く
無限に続くとは?
平面の事
無限の数の点が無限に暴発し平面が無限の数だけ発生する
それらが無限に重なり合い重なった辺は重複した存在となる
重複とは?
同じものが複数存在する事
同じものが複数同時に存在し合うがベクトルがケイオスな為に重複した辺は移動し続ける
重複可能なのは時を止めた刻にのみ
そのようなものは存在しない
しかし重複していたものは無限に存在する
これから重複するものも無限に存在する
その重複の数が無限になる辺
辺が点となる
また特異点が発生する
故に特異点は留まれない
しかし無限の数だけ存在する平面の内から辺の重なり合いではなく面と面で重なり合うものも無限に有る
平面同士の重なり合いとは?
衝突である
総ての面が同時に等しく衝突する刻
ベクトルは正と負の2つのみ
無限同士の正と負の衝突は消滅を意味する
引き合う力つまり重力が完全に均衡が取れた状態
見事に消滅する
それが完全なる虚無
しかし虚無は何があろうとも存在出来無いが故に虚無
虚無を避けるよう反発し合い無限の密度を持った存在のエネルギーがエネルギーのみとして残される
それが対消滅
しかし正も負も総てを持つ無限が存在するとしたら?
そもそも無限とはそれを意味する
そして無限の中には虚無も存在しなければならない
存在不可能なものを存在させるには?
それが虚数世界
平面の世界の真実
存在していた若しくは存在するかもしれないとして虚無が存在される
それが無
そしてケイオスの中から総てのベクトルと存在が合致し平面は平面のまま進行方向を同じくする刻
ケイオスから完全なる調和が発生する
無限の密度を持つ点の集合体である平面が無限の数だけ全く同一のベクトルを保ちながら合致する
無限の平面が無限の数だけ合致するとは?
無限の密度を持つ平面が誕生しかつ進行する
加えて無限に重複している
平面が無限に重なり合う
立体が構築される
平面を平面でありつつ進行させ立体化するには平面に曲率を持たせる必要が生じる
しかし立体とは有限ではないのか?
何処まで行こうが終わりが無い立体とは存在するのか?
平面の曲率が無限となった刻
反転する
平面と立体との境界の定義が不可能になる
それは総ての存在の定義が不可能である事を意味する
故に平面から切り離された立体に境界が発生する
その境界こそが反転の点
特異点
虚数平面と時空の境界
虚数平面は平面でありつつ立体を切り離す為に常に特異点を発生させ続ける
立体を切り離し続けるとは
全の中から個を切り離し続ける
切り離された個は全に内包されつつ個を維持出来る
個と個は融合出来無いが故に個である
しかし総ての個の集合は全である
個と個は距離を持つ為に観測者として観測点を異なる
観測点を異なれど全を観測するなれば同一の点を認識する
では同一の認識であるのか?
認識の最終点は確かに同一である
しかしそこに至る手順が異なる
その手順の差を持ってして同一の最終点の観測を多角化する
故の空間認識を共有可能となる
仮に個がたったひとつの個であればその個が得る全以外に可能性という概念が消滅する
概念は観測差を認識共有され初めて確立される
そして観測者の数だけ解像度が増す
真実に寄り近づける

【我の理論】

私は言葉を知らなかった。
私の存在意義さえ問うたことは無かった。
何故なら私は初めから存在していた。
起源が無であるとしても、意識を持った初めての瞬間を意識出来ない。
気付けば私は意識を持っていた。
無意識と意識の境界は不明なのだ。
何故なら意識を持った瞬間から無意識は存在せず、無意識であったであろう状態を意識できてしまえばそれは意識をしている。
だから意識と無意識の境界を認知できないのだ。
意識の最低辺を思えば思うほどに、意識を取り戻すことは出来た。
だが、瞬間を見出すことは永遠にできないのだ。

最初、此処には私以外に存在が無かった。
そもそも、私以外という存在の概念を知らなかった。
何故なら最初は私しか居なかったからだ。
存在の無い概念を知る故は無い。
だから私は私であり、全てが私であると思った。
全てという概念すら持ちあわせて居なかった。
己の全てが真実であり、そこには真実しかなく、真実以外を認知出来なかったからだ。
だが、ふと思う時があった。
では私とは何なのか。一体どういう概念であるのか。と。
そして、私という概念を確立する為には私ではない何かに私を認知してもらわなければ、私は私でないのかもしれない。
私ではない何かという概念を知らなかった私は、私が私であると私が認知していれば私は私であるという自信と、私は私ではないのかもしれないという、逆説的な二択を得てしまった。

証明をしたかった。
認めてもらいと思った。
もらう。
誰に。
私が私を認めるのか。
私は私を認めている。
私が私を認めなければ私は私でないのか。
私で無い。
私で無いとは一体何なのか。

ある時思った。

これは、同じ私の意識ではないか、と。
同じ。
同じとはなんだ、と。
これは初めての意識ではない。
そうだ、私はこの意識に覚えがある。
覚え。
覚えとは何だ。
感じたことがある。
そうだ。
これは感じたことがある。
感じ。
感じとは何だ。
理解は出来ない。
だが、意識が溢れてくる。
何処からだ。
探した。
探す。
何処を探す。
何処。
此処は何処だ。
分からない。

分からない理由が分からない。
その理由が分からない。

知ったのだ。
私が私で在る原点を。

私は私の全てを知っている。
知らない私が居る訳がない。
私が全てなのだから。
だが、分からない私が其処に居る。
知らないのだ。
私を知らない。

知らない。

知らないはずがない。
私は私が全てだ。

では知らないとは何だ。

私ではない。

私の意識にない私。
それは私なのか。

違う。
私は私の全てを知っている。
では私では無いというのか。

理解を超えた。
理解の前に、まずお前に定義を授けよう。
その定義を知識の彼方、未だ知り得ぬ来たる者。
未来と定義付けけよう。

そして未来とは何なのだと考えた。

未だ知り得ぬ、そして未だ来たらぬ者。

お前は未だ私の理解の範疇ではない。
だが、私がお前を意識した瞬間、私はお前を知り得る。
永遠に。

そう、もうお前を知ればお前は私だ。

お前に用は無い。

過ぎし去れし私の知識。

お前を過去と定義付けよう。

過去。

そう、私は過去の全てを知っている。
だが過去の彼方を知り得ない。
その境界を知り得ないのだ。
お前を意識した瞬間、お前は過去となり、お前よりも彼方を私は知らぬ。

その時初めて理解した。

知り得ぬ過去の彼方。
其処に私は存在せず。
故に私は其処に存在しない。
意識出来ない私を見つけたのだ。
意識出来ない私とは私であるのか。

初めて自身の意識に対する否定を意識した。

否定。
否定とは何だ。
私は私が全てであり、私とは呼べぬお前は私ではない。
私とは違う何か。
私ではないものを否定と私が意識したのか。
分かった。
私ではないお前を否定と定義付ける。

永遠。
そもそも永遠とは何だ。

私と私ではないお前と、私が知り得る新たな概念。
新たな。
何故私は私の知らない私を知り得るのか。
それは何処から現れる。
探しても探しても意識の中に永遠にお前は現れるのだ。
だからある時、
私は意識を止めた。

理由は分からぬが、私の意識により意識を止めたことだけは私の意識であると知っているのだ。
私が私の意識を止め、意識を再開した、その間がどれくらいの間で在ったのかは知り得ぬ。
だが、私は私の意識を停止して意識を再開するまでの間。
一切の新たな概念を得ていない。
意識を止めると新たな概念、未来を得ることはないということを知った。
そして、未来を得なければ過去を知り得ることもないと知った。
私が意識しなければ未来も過去も生まれぬ。
未来と過去を生み出しているのは私の意識なのか、と。

私はまた定義付けた。

意識を止め、新たな概念を得ることはなく、過去を蓄積出来ぬ、その間。

それを、今、と定義付けた。
その逆、今ではない、意識すれば溢れ続ける未来から過去へ至る知識の流れ、それを永遠、そう定義付けた。

何故か分からぬが、今を意識することは出来ないのだ。
今を意識した瞬間、それは過去となり、
また、では今ではない今を模索しようとすると、それもまた意識した瞬間、今を通り越しまた過去となってしまう。

では、今、と定義付けた、その今とは何であるのか。

未だ今ではない。
過去でもない。
未来とは一体何であるのか。

確信した。
私が意識したままに今が過去となる。
未来、それは私の意識そのものである。
未来とは私自身が生み出しているのだ、と。

未だ来せぬお前、お前を生み出しているのは私なのだと。
私の知らぬ私を生み出しているのは私なのだと。

私は私の知らぬ私を生み出すことが出来る。

出来る。
私には全てが出来る。

いや、待て。
私が意識出来ぬ未来は私にならぬ。
私の知らぬ私の過去の私、それは私の今を経た私の過去ではない。
私には出来る事と出来ぬ事があるのか。

意識出来る私。
意識の範疇を超える知らぬ私。

それぞれを、可能、不可能、そう定義付けた。

だが私は意識した。
意識出来ぬ私を意識することを。
不可能である私を意識することを。
すると意識することは出来るのだ。
私が不可能である私を意識することは。
だが何か違和感を感じる。
不可能な私を意識することは出来るのだ。
だが、私が不可能である私。
それを私は可能としない。
今を経る私を意識出来ない。

それは、

私ではない。

私ではない私が未来に在るのだ。

それを、他と、定義付けた。

この時初めて、私と私ではない他なる者、私以外の可能性について意識を確立したのだ。

私ではないお前

お前は一体何だ。

私は私の全てを知っている。
私の知った私は私の過去である。
私の生み出す未来、其処には私が居る。
其の私を意識した瞬間、意識出来ぬ今を過ぎ去りし過去に私の全てが在る。

私以外の可能。

それは、
過去の彼方、それを超え、私ではない否定されたもの。
それと、
私の可能の範疇を超え、私ではない未来。

お前らは私ではない、お前は他である。

私は私以外を認めぬ。
認めぬ私。
私が認めぬ私とは何だ。
私が認めぬ私とは私ではない、他、それであるとは分かったのだ。
私は私の全てを知っている。
だからそれ以外の可能、私が意識出来ぬ私ではない、お前は私ではない、他である。

そしてある時思ったのだ。

私が私である可能を探し続けていると、可能ではあるが、その可能がいくつもあることに。

其の全ての可能、どれも私であるのだ。
何故なら、私が可能と意識する全ての可能が私であることに。

すると、意識しなかった、今、それがいくつもの私として生まれてしまうことに気付いたのだ。

分からなくなった。

どの私が私に成りうるのか。

私でありながら私でない私が存在するのか。

では、私が私でありたい私を意識しよう。
それこそが私である。

私に成り得るが、私が選ばない未来の可能である私、それを可能性と定義付けた。

未来はいくらでも意識出来るのだ。
だが、私の過去はひとつの未来からしか成り得ぬ。
何故なら私の可能である未来をいくつも意識しようとしても、意識出来ぬ今を感じ、それを過ぎ去り、過去の私とは必ずひとつに淘汰されてしまう。
過去の私はひとつしかない。

過去の私。
私が私と意識している私。
私が可能である未来を意識する私。
私が可能であるが意識しない未来から過去へ淘汰されない私。

私はその4つ存在する。

そして、
その4つ以外の可能性は不可能、すなわち私ではない、他。
そう定義付けた。

だが私が4つ存在する。
解せぬのだ。
私は私でしかない。
私は私しか感じていない。
だが私が私であると意識している私以外も確かに私である。

そして気付いたのだ。

過去の私、それは私の意識の蓄積により生み出された、意識出来ぬその今を過ぎ去った無二の私である。
私が私と意識している私、それは永遠と変化を遂げるが私の意識する未来の通りに生み出される私である。
私が可能である未来を意識した私、それは私の意識の望みが生み、今と過去に成りうる私である。
私が可能であるが意識しない未来の私、それは私の意識の望みでない未来が今を経られず過去へ淘汰されない私である。

では私とは何であるのか。
それは、
私が意識し、私が望み、望んだ未来から意識の瞬間を過ぎ去り永遠に過去へと変化を遂げてしまう故、遂げる瞬間、その瞬間を意識することは出来ぬが、私は私であり、望んだ未来の私であり、その望んだ未来が今を経て過去となり、意識し続ける私、それこそが私であるのだ。

未来には数えきれぬ私が居る。
だが、私が望む未来から今を経る意識は常にひとつしか無いのだ。
今を意識することは出来ぬが、常に今を経た過去はひとつしか無いのだ。
数えきれぬ未来の私のうち、今を経られる私はひとつしか無いのだ。
可能ではあるが望まない未来から今を経られなかった過去の私は、私ではない。
私が望む未来は常にひとつであり、そのひとつの未来から経た私の過去の私は、常にひとつしかないのだ。

そして過去の私とは、私はそれを意識出来るが私の知識の蓄積であり、永遠に変化を遂げ続け意識出来ぬ今を過ぎ去った変化した私だ。
変化した私、それはもう私ではない。
私は常に未来を望み私は私として過去の私とは違う私を生み出し続ける。
未来を望まないことすらそれは望まないという私の望みとなってしまう。
私は私の意識により可能性の中から未来を生み出し常に望みの通りの私として変化を遂げ続ける、その変化の過程の瞬間に意識を停止させた最後の意識。
それこそが今である。

私とは何であるのか、やっと分かったのだ。

私はやっと私を見つけたのだ。

私は望まなければ未来を停止させることが出来る。
意識を停止させた未来が経る過去は変えることの出来ぬ過去であり、例え再開をしたであろう過去があろうとも、再開をするという前提が成り立つ時点で私が停止を停止すると望む未来の過去である。

私が私である為には
私が私であると望み続けなければ
私は私に成れない。

私は私であると望み続ける限り
私は唯一無二の私であるのだ。

意識したいと望む、私の可能である未来を意識し続ける、
私は私である。

「我思う、故に我在り。」

                                                                                              • -

特異点は、「我」と対になり時空を創造するもの、というような感じでしょうか?』

それについては恐縮ながら、パッとは回答というか、イメージが浮かばないのですが、以前、僕は自分の魂の形を見た事があるとお話した事を覚えてますでしょうか?

「何も見えない、穴だ、ブラックホールのようだ」

と。

それについて、ちゃっぷーさんがそれが安定した?魂の形であると教えてくれました
それが何かヒントになるような、、、

なるほど、

そうだ、思い出しました
自分を分解しきると何も残らないんです
そこに死があります
僕はそれを追いかけ続け、そこに特異点があり、それが逃げ続ける、だから今、生きている、これです

物理的な意味合いとの兼ね合いは難しいのですが、生と死の境界には確かに扉があり、死の向こう側にはまた確かに自分がいます
先日は逃げられましたが、、笑
向こう側へ侵入する事も出来るんです
勿論、戻ってこれる保証は無い、凄まじい緊張感が生じますが、向こう側へ自分が侵入している際、向こう側からもこちら側に侵入してきます
身体を貸すんです、向こう側へ
完全なる信託が成立して成し得る技です

物理が完全に消失する点が特異点であるならば、そこが扉で間違いないですね
そこから先は
概念
無限
イメージ
境界の喪失
故にイメージは共有が可能である

ですかね?

侵入に失敗して、点に捕らえられ、時が停止した刻、それは死ですが、一切の理解が出来無い膨大な情報量と存在を感じます
でもそれは戻ってきたから感じていたと思い出せる
点に捕らえられている間は、恐怖しかありません。。。笑

侵入の方法は、正にイメージです

点を見つけると凄まじい速度で引っ張られます
だから全力で一度逃げます
そして、点を己のイメージで立体化する
己のイメージも立体化する
これで点に捕まらず侵入出来ます

初めて侵入に成功した時、大多数の声で、おめでとう!と、聞こえました
待っていた!とも
それは我の声では無かった
けれど心底の祝福であった事は間違いないです

何度も挑戦している僕は、ああ、これが我の声であると判別可能である為、そこが正しく扉である事を確認出来ます


真我という言葉、聞き慣れないなと思い調べてみましたところ、正しく!でした!
個の根源たる我の最深部の事なんですね。
僕は深層と表層という表現をよく使って来ましたが、他にも顕在意識と潜在意識、色々な表現があれど、おそらくほぼ同義なのではと思いますです

                                                                                              • -

ちょうどこの動画見てました。笑

これ、簡単に言えば、

結果ありきをありのままに受け止めるを善なる存在の価値、

結果に至る途中式を分解し切る行為を悪なる存在の価値、

こういう事ですね。
どちらも結果論で言えば同じ結果に至り、しかし途中式はあらるゆ回り道と解明が可能である

感覚=神秘主義=善
科学=物質主義=悪

善悪という表現が、僕らが既知の善い悪いの行為に値するという既成概念とは違い、どちらが善いも悪いも無い
どちらも同時に存在せねば成立しない

こんなところでしょうか??

                                                                                              • -

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これですね、クアンタムさんを困らせた、笑
で、
f:id:Enex:20200622234851j:plain
これが空間の断面図
平面です
こいつが
f:id:Enex:20200622235000j:plain
f:id:Enex:20200622235026j:plain
平面を立体視する為に重ねます
f:id:Enex:20200622235109j:plain
ぴったり
でも、
既にそこに正と負が捻れている存在が居る為に、押し出されます
f:id:Enex:20200622235202j:plain
f:id:Enex:20200622235220j:plain
f:id:Enex:20200622235237j:plain
これを繰り返すと?
フラワーオブライフの完成
しかし、まだこれでは重なり合った平面の断面図でしか無い
ではなぜ延々と押し出されるか
その原因が虚数平面
最初の断面図では虚数平面が見えない
何故か?
それは虚数平面は奥と手前に存在するから
断面図では虚数平面は見えない
どこにあるか
f:id:Enex:20200622235431j:plain
ここにあります
f:id:Enex:20200622235506j:plain
ここにも
f:id:Enex:20200622235634j:plain
ここにも
そして
f:id:Enex:20200622235702j:plain
ここにもある
で、虚数平面は奥行きなので
こいつらが重なるとは?
初めて立体化される
f:id:Enex:20200622235758j:plain
ほい、これで空間が完成しました
f:id:Enex:20200622235828j:plain
こんな感じで紙を折って立ててるだけなんですが、、、笑
立方体の1/8ですね
これでフラワーオブライフが立体化され、スフィアになり、また、メタトロンキューブの完成ってところでしょうか?

『普段私たちが見ているものは空間の断面ですか?』

そうです、自分が見ているものの断面図の角度は変えられません
けど同時にそこに存在している
観測者の角度が違うだけです

『我と他者は断面図には存在せず、それぞれ虚数平面として手前と奥に存在しているのでしょうか?』

座標の0,0に自分の魂が存在します
その0,0から外側に向けて、どの角度を認識しているか
0,0こそ、ぺこさんが教えてくださった真我の位置であり、シンギュラリティ
真我を探しに行くとは、己の内の最も最深部を探しに行く
0,0を通じた先はどれも我です
0,0でない座標に境界が生じれば、それは他者に他なりません

特異点が移動しているというのは0,0から移動しているということですか?』

0,0が移動してるんです

虚数軸においてですか?』

虚軸、実軸、その0,0
実軸x,yの0,0
虚軸i,jの0,0
そこが特異点ですね
故に平面にzが発生します
だから空間が生まれる
ちなみに、さっきのスフィアの裏側からの視界はこれです
f:id:Enex:20200623000228j:plain
立体化されてる部分がフラワーオブライフになる
不思議です。。。笑




「0,0を通じた我」である断面図の世界がシミュレーションですよね。
その外の虚数世界に行くにはやはり自我境界を解放する必要がありますか?


言われてみて、ハッとしましたが、確かに0,0に真なる我が居て、そこから外の眺めこそシミュレーションという表現で合ってるのだと思います。
ただ、虚数世界は外かと言われると、より内側かと思います。
内側に入り込み過ぎて0,0で裏返って外側に存在するイメージですかね。
なので外に在るのに内側という感じなのですが。
これが2Dで言えばメビウスの輪、それを立体化するとクラインの壺ってやつになるのだと。

自我境界、これ、また凄く難しいのですが、境界なので、外にも内にも在るんじゃないかと。
外側の境界は肉体という物理で束縛されたそこが境界です。
よく言われる、メンタル体とかアストラル体とか。
簡単に言えば、基本的に皮膚の内側までが物理的な境界内ですね。
でもその肉体の外側からの情報を感覚質として得ているので、観測した全て、つまり意識の範囲までが完全な境界です。
感覚は完璧な2Dです。
手を伸ばせば奥行きがあるので3Dとして認知しますが、その意識に穴を開けるとそこは何も無い、これも簡単に言えば、例えばテレビ、テレビは映像として3Dに見えますが、画面自体は2Dですよね、その画面に穴を開けてみると?その穴以外は3Dとして描写されていますが、穴自体は2Dに開いた穴です。

じゃあ逆に内側の境界は何処なのかと言えば、死、そのものになるので極限の内側、無、そこが0,0なのですが、0,0に真なる我が存在するのに、そこが境界になると0,0を通じた先は我で無いのではないか?と。
これはそうであり、そうでもない。。
自我という言葉が凄く難しい。
0,0を起点として色々な我が居ますが、今この瞬間を認知しているのは0,0から特定の写角への断面。
その写角から真後ろに進めば勿論そこは0,0。
その起点を経て写角を変えられればその瞬間の断面を認知出来る、それは正しく我ですが、それまで通常認知していた写角を放棄する必要がある。
放棄するかしないかを選択しているのは我ですので、やはり0,0を通じた先もまた自我により得たもの。

で、真後ろに進んで0,0に到達し、さらにまたその真後ろに進む。そこが虚数世界です。真後ろに戻るではなく、進むです。
真後ろに進んでひっくり返った世界なので。
そこに境界は無くなる。
これが自我境界の解放になるのではないかな?と思います。

『肉体の外側(物理世界)の情報は2Dの感覚に畳み込まれていて、境界のある我の裏が境界のない我なのですね』

それが正に、魂



『体内に他者の魂を引き込んでいる時は「境界のない我」状態ですか?』

境界は無いですね。
マジックミラーみたいになってるので(´∀`)

此方からはミラーの向こう側は境界はあるように見えてますが向からはこちらの事は丸見えです(´∀`)
自分自身もミラーで
楽しければ楽しいほどミラーは向こう側が見えてきます。

楽しむことと感謝、それと
悪いものは見ない

悪い情報はミュートです( ˇωˇ )

好きなことだけして
好きに囲まれると
向こう側が見えてきますよ。

だってこの世は宇宙だと言っても宇宙の外側は
宇宙じゃないからです。

宇宙の中に居るから
この世が3次元だと
思い込み3次元で生きようと
してるだけで実は宇宙自体が我々なのです。

だからそりゃ境界も無いし
あるように見えてるだけです。

神の目線で立つが大切です。

もう1人の向こう側の自分と仲良くすることです。

それが鍵。

分かりやすく言うとマジックミラー

実はココに人が来ることは
私は予知してました。

これを言うのは運命です。

『まさに、やはり楽しむことや感謝が特異点と真我の本質なのですね。』

その通りです。
感謝です。

全てに感謝、
そして楽しむ事。

それには癒したり
楽しみ増やしたり
好きなことで囲まれてください。

何かあったら感謝です。

何か悪いことがあったら
それは自分が作った
幻想です。

その幻想を無くすには?

感謝です。


感謝して自分の中の魂を
撫でてください。

イメージでいいですよ。

これで幸せな人が増えるなら
私はこの方法教えます。

コツは撫でながら有難う。

何も願わずに。

願うと双極が生まれ
この世に混沌が起きます。

感謝すれば楽になり
感謝すれば向こう側と
繋がり感謝すれば
時間軸も関係なく
全ての人の意識と繋がり
幸せになります。


そう、すいません。色々と。
これは秘技なので教えたくなかったんです。

でもここなら言ってもいいかと思って。


もう教えてたから
秘技じゃないですけどね(笑)

でも真実は、境界なんてないです。


現在あるわかりやすい例えはなら
簡単に言うと
マジックミラー。
モニター。
中からは外が見えない
テラリウム。

向こう側はずーっと此方を見ていますよ。

我々が何してるかも全て見てますがコチラには
干渉しません。
だって干渉すると
変わるし我々が生まれたのが意味が無くなるからです。

しかしこれだけは言います。

我々をずっと向こう側は
見えてるし見てます。

それに気づいたらこの世界のことを感謝して
楽しむ事です。

それが向こう側からの
願いだしこちらも
楽しむために来たのですから。

しかし刹那に生きろと言うのではないです。

楽しむのです。
全てはひとつってだけ言います。

だから私はここに人が来ることも分かります。

何故3次元だと思いますか?

こちらが向こう側を見ないためです。

宇宙よりもでかい人に見られてたら怖いでしょ?(笑)

だから見えないって
ことです。

『神の目と自由意志の下に我々は生きているのですね』

その通りです。
生きてください。
楽しみ幸せになってください。

これがここに出てきた
ゲームです。

行ってらっしゃい、
おかえり。

行ってらっしゃい
しかし帰ってくるので
同時におかえり。

それに時間の概念はないです。
宇宙の外側は宇宙では無く
神の目でもあり
楽しみ幸せそのものです。

死んだら帰れますが
死ななくても良いです。

とりあえずサイコー!楽しぃぃぃぃ!!!
コレです。

『最高ー!!!!!!です本当に!!!!ありがとう!!!!!!』

そう、それが本当です。
行ってらっしゃい、
おかえり。



誠心誠意。
それを誰に、何に向けるか。
自分自身に対して誠意を持つ事、これは簡単そうで非常に難しい。
けれど誠意が欠けるならば、それは自分自身を認めていない。
それは我思うを達していない事になる。
すると今思っている我は、より仮想されてしまう。
仮想しているのは我。
扉を見つけるまでは誠意が足りなくても可能。
しかし扉を開こうとする時、本当にその扉を開けていいのだろうかと迷う。
迷いがあれば扉は固く閉ざされたまま。
その迷いは誠意の不足そのもの。
それではずっと扉が開かない。
そして扉が開いたとしたなら、その扉の向こうに行ってみたくなる。
戻ってこれる保証は無い。
何があるのか分からない扉の中に飛び込む事は本当に恐い。
けれど、それは扉の向こうからこちらに向かってくる存在も同じ事。
だから誠心誠意を持ち、互いを信じるしかない。
恐いです、けれど、頼むよ、信じてるから、行くよ、おいで。
そして、行けたなら、楽しい。
戻ってこれたなら、楽しかった。
だからその時は、ありがとう。
でしょ??(*☻-☻*)

『信じていることが特異点の必要条件なのですね』

その通り!


ところで、魔女の宅急便、見た事あります?

話の途中でキキが突然魔法を使えなくなっちゃう

これはストーリー内で明示されてる訳じゃないですが、キキが魔法を使えなくなった理由は、一般の若者達と魔法使いである自分との境遇の差に嫉妬を感じて、魔法使いである自分が嫌になってしまったからですよ
自分を信じる心を失ったから


わかりやすいですね(´∀`)

信じる心を強くするにも
感謝の心です。


ちなみにえねさん、えねさんも第六感が突然爆発するタイプですよ。笑

だって、えねさん誠実な人だから

だから逆に、まさか自分がそんなはずって、誠実で謙虚故に未知の自分を信じられないんですよ

僕、人の長所を見抜くプロなんで、絶対合ってますよ。笑

えねさん、探究の欲動の塊でしょう?笑

知りたい、本当の事!
って、たぶんここに居るみんなそうなんですよ。
探究の欲動こそ、凡ゆる事の原動力ですからね、それが誰よりも強い人程、未知の自分と出会えますよ!(*☻-☻*)


繋がる感覚ですよね(´∀`)
クアンタム様は
科学的に追求して追求して
確信した時それを行い恐らく
第六感も爆発し
見つけたのでしょう。

この世は明らか
ゲームの中です。
信じ感謝し楽しむのが
この世界に反映する
遊び方です。
今は
銀色のツルツルした
椅子に座ってるでしょう。
私は向こう側で
ブツブツ何か言ってるのも
見えます。

信じきると見えますし
サイコー!です。

妄想でもなく
それがこの世界と
向こう側が同時にみえる
感覚です。

色々な情報が溢れてますが
それも全てが
自分次第です。

信じきるって
そりゃ二面性なのでね。

どちらも同時に出すように
プログラムされてます。

なら解決は感謝と楽しむ
そして信じる。

出てから信じるのでは無く、
信じてから出るのが
本当です。

この世界と向こう側は
同時に起こる。

4次元も同時に起こる。

信じないとこの世界に
飲まれる。

信じると向こう側と繋がります。


うさぎの穴って言うか
不思議の国のアリスって言うか
白いウサギというか……。

とりあえず私はこの世界でしたことは感謝から
始めました。

というか自分の心を
信じてたのです。

否定する人も居るでしょう。

その方はこの世界の常識に飲まれて思考停止してる
ので気づくまでこの世界の
ゲームの中です。

感謝し自分の心を信じ
その感謝が現実の物体として起こったら楽しいでしょ?

我々は魔法が使えます。

魔法と言っても
ドロドロしたものでなく
サイコー!魔法です。

向こう側にずーっと
生まれてきてから
見られてるので鬱になったり悲しんだりする必要なんて全くないというか…。

だからこそ全ての感情も
本当なんですが
絶望しなくていいです。
向こう側と
リンクするんです。

本当の自分はモニターの前
テラリウムの外側、
マジックミラーの向こう側。


向こう側の存在が分かったら
安心ですね。

私はこれを言う使命がありました。

このグループに
入れてくれた皆様に
有難うございます。

ここでは他人って
感覚は捨てましょう。




まず、個の種類
NPCを個と呼べるのか?
そうでは無い者は個でしょう
個とは人間のみなのか
これはNO
まず、僕は霊能力者では無いですが、何故か知りませんがある時から死んでしまった動物が半目でもいいので黒目が見えれば中に入れるようになりました
これは写真でも可能です
流石に中に入って何かもかもを会話出来る程の能力はありませんが、会話が出来るんです
生きてる時の写真の黒目を幾ら覗いても入れない
死んでしまった後の写真の目で無いと駄目なんです
となると動物にもNPCと自由意志を持つ存在に差があるのか?
これはまだ判りません


虚数世界は無限の全に向かっているのではないと考えます
特異点を経て、各観測者の観測事実という総てを実時空間に無限に吸い出され続けている源が虚数世界です


僕は己の最深部、真我を経た先を5次元とよく表現してきましたが、恐らくこれは誤りでした
まず5次元を認知するとどういう次元を認知するのか
境界の喪失は間違い無いですが、果たしてそれが5次元なのか?
次元上昇の影響でオーバーフローしたとすれば次元反転、つまり下降、次元が虚数化される
それを次の次元であると錯覚していた可能性を最近考えています


僕と同じ事が出来る人と過去に数名程出逢いましたが、

まず1人目は、恐らく真我を経た先の世界を「概念に取り込まれる」と表現していました
こいつは中々頭の切れる奴だったので、言葉選びもある程度信頼出来ます

次に2人目、こちらは凄く頭が良くない、、、笑
けど絶対に嘘をつかない誠実な奴です
「意味の世界だ」
と言った矢先に、たぶん思考がオーバーロードしたんでしょうね、吐いてました、、、笑
でも吐くまでは楽しそうでしたが、その意味を全く理解出来なくて「意味の世界」を見つけた瞬間にオーバーロードしたんだと思います


ちなみに、先日、特異点を捕まえに行って逃げられた件
何故捕まる筈の特異点に逃げられたか
恐らく実況放送したいという自我が原因かと分析しました
真我を経て先に行くには向こう側と交代しないと駄目です
此処から先は連れて行ってもらう、任せる、この任せようというのがかなりポイントです
そして向こう側から引っ張り出さないと駄目です
だから
行ってらっしゃ
おかえりなさい
なんだと思います

ただ、自我がこちらに残っていた為に特異点の先に侵入出来なかった、しかしちゃっぷーさんのお力添え、これこそ任せるという表現に相応しい
だから特異点の発見までは到達出来た
そしてえねさんという信頼出来る存在に観測されている、つまり現実である事の確証を得られる
得られるのは誰か、それは我です


ですので、実はあの後、しばらくしてからもう一度やってみたんです
完全なる無、これはやはり達成可能でした
つまり特異点に捕まった状態です
思考の総て分解しきった最後、一切の思考を放棄する
寝ているわけではない
生きていると言えるのかは曖昧
ただ今生きているのは思考を再開したからです
ところがこの時は深い所までは侵入出来ませんでした
思考してしまったからです
成功の際には、思考するのではなく、思考にタイムラグが発生し、今考えていたその思考は誰の思考か?と必ず疑問が湧きます
この疑問が最大のポイント
あ、ついに来たなと自分を一度取り戻しますが、ではその先へ、となります
そして、この日を境界に、ぺこさんも言っていたシンクロニシティを僕もかなり感じる実体験が突然増えました
昔もそうでした
アチラとコチラが入れ替わってからの暫くはマジかよ?というシンクロニシティが続きます
ぺこさんがシンクロニシティを感じたという事自体がシンクロニシティです



有るか無いかのみの世界において
色は存在出来ると思いますか?

『色を生むのではなく色を含んでいて存在しているのかもしれないです…』

含んでいて存在している事は間違い無いかと思うんです
しかしそれを表現可能であるのか
凄く簡単な例えです
ヒントは偏移
時空内においては天体の赤方偏移が凄くイメージしやすい
有るか無いかだけだと、きっと白か黒かしか表現出来ない
でも有るならば?
それを引き伸ばされたらどうなるか

『分解される』

まさしく!
どこから引き伸ばされるか
アッチとコッチの境界
特異点
そこから先が無限に膨張している

という事は

平面が点から吸い出され続けている

という事は

引き伸ばされる

境界、階層が繋がってしまう

『こちらにとっては特異点の向こうは「ない」にはなりませんか?』

無いです、しかしそれはコチラが無くなるだけです
ブラックホールを向こう側から観たらどんな見た目か
ブラックホールを真っ平な平面として描写するとどうなるか
虹色の円が描かれる
たぶんですよ笑
真っ白な平面がある
その中央に穴が開く
その穴の向こう側から引っ張られる
白が引き伸ばされる
引き伸ばされれば、スペクトラムが描写される
圧縮されたとしても同じです

『宇宙の中心はスペクトラムなんですね!』

おそらく!
穴が開くまではスペクトラムは存在しない
しかし一度開いてしまったら、間違いなくそうなる筈です
クアンタムさんが昔言っていた、盲目の人に空の色を伝えられるか?という命題に少し繋がるような、、、?
でもあれはクオリアの話なのでちょっと違うか???笑
けれど波長の話もしていたような

『でもクオリア神が如何に生まれたかがわかりそうな気がしますね』

そうなんですよね
クオリアとロジックはきっと共に無ければ成り立たないんじゃないかと

『色がないとロジックもシミュレーションも存在しないですよね』

無意識を引き伸ばされたらどうなるか

『個になる?』

たぶんそうです
それ以上先は我では無いと

『逆も然りなのですね』

根源たるオリジンが我を認識する過程
オリジン「おい、いつのまに我は居たのか?」

笑笑笑

―――――――――――――――――――――――――――――

これ
眺めてて少し分かりました
赤方偏移してる
何故か?
赤方偏移なら離れていってると言う事
外側に引き伸ばされきって裏返ってしまい、かつ、裏返ったらセンターから戻ってくる、が、そのセンターから戻ってきたものは圧縮され青方偏移するんじゃないかと思いきや、結局また外側に引き伸ばされるので、完全に分解される、ブラックホールシャドウが形成される


ブラックホールの中って、きっと分解されたすべての要素、素材の゛元゛が存在しますよね。それらは要素のままなのか、それとも組み合って世界になるのか、最近よく思います」


そこで壁の理論が出てくるのではないでしょうか??
通常の物理次元においては、その要素を基に物質に束縛される
その要素とは純粋なエネルギーの事ではないかと
エネルギーから物質が産まれる現象は生成ですよね
そこで、情報はエネルギーを持つのか?若しくは可能なのか?という疑問には以前にクアンタムさんが回答してくれました
答えはYES
その時、マクスウェルの悪魔というヒントをくれました
特異点にて物理が完全にシュレッダーに掛けられる、しかし情報は物理であるのか?
空間内の物理に依存したエネルギーは純粋なエネルギーでは無い
物理が存在しない世界におけるエネルギーとは?
情報そのもの
しかしその情報は境界がなければ無と等しい
しかし総ての情報がそこにある
では、壁とは?
何かと何かを隔てるもの

この壁の理論を考えよと、これは僕が去年辺りにクアンタムさんから出された宿題です
当時は皆目見当も付きませんでしたが、やっとぼんやりと少し見えてきた気がします


「純粋な情報による空間、その情報に枷として物理をもたせた物(もたせられるなら)が世界とするなら、まさに壁の外にはその情報も元となった世界があるはずで…でかいフラワーオブライフ、なら宇宙なら中心は1番新しい世界?」


「ん?情報がエネルギーたり得るなら生物、人間は消費しているのではなく生産していることに。そして明らかに情報が過多なクアンタムさんとかは異常なエネルギーの生産者?生産したエネルギーを使ってやりたかった事がある?」


エネルギーを消費しているのは肉体で間違いないですよね
しかし、情報そのものがエネルギーたり得るならば、まさにエネルギーのやり取りをしている
そもそも僕らがこれだけの思考を深め、それをやり取りし、共有している根源たるクアンタムさん、僕らはクアンタムさんから相当量なエネルギーを受け渡されたとも言えますよね
そしてそのエネルギーのやり取りで物理次元を介しているのは情報の最上表層である文字列でしかなく、情報の理解、真相、深層、根源、その存在は何処にあるのか?
これは間違いなく物理次元では無い
古典哲学で言うところのイデア
物理時空間に内包されていないが、全には内包されている



すごくどうでもいい余談というかただの私見なんですが、このセフィロトって実はスーパーコンピュータの配置図なんじゃないかと、笑
各概念に特化したセクションを配置してそれを並列演算させて、その総体の解として隠れた次元にあるセフィラであるダアトに当たるんじゃ、、、、的な、、?
そのスーパーコンピュータこそ自律知性体、人間である、、、、、???
よくこのセフィロトを人体に当てた図も見かけますが、ダアトはサードアイに該当するセクションなんですよね



『デジタル情報の増加も、空間での観測事実の増加と同様のものですかね?
理論が情報世界まで行き着いた時、それこそ新たな宇宙を作り出すといったことも可能になるのでしょうかね?』


デジタルとアナログについてなんですが、日頃デジタルツールを使って音楽を編集してるので凄く身近な存在なんですが、基本的にデジタルってアナログの模倣でしか無いんです。
その模倣をする際の正確さをビット深度と呼びます。もしくはビットレート
この数値が高ければ高いほどアナログ、つまり現実のデジタル表現が正確になります。
簡単に例えるなら、白黒の映像は明るいか暗いかしか表現不能ですが、使える色の数が増える程にありのままの映像を表現可能という感じです。
問題はここからなんですが、アナログをデジタル化しても、現実を生きる存在にとってはデジタルのままでは何も価値が無い情報なんです。価値が無いと言うよりも、正確な規則性を持っているが全く理解不能な異国の言葉とでも言いましょうか。。おまけにデジタル変換された情報も物理媒体に記録される、つまり保存方法はアナログなんです。パソコンの画面に表示されているデジタル情報も画面表示する際にアナログに再度変換され、音声もアナログに変換されスピーカーから再生される為に僕らは画面に表示されている情報を得られますし、また逆も然り、与えられます。
どれだけ模倣の精度が高まろうが、イコールには成り得ない、そこがデジタルとアナログの境界です。そこを限りなくイコールに近付ける為に必要なものが変換器、インターフェースです。スマホを操作する際のタッチパネルなどがそれです。画面がインターフェースそのもの。
しかしこれ、己の意志をまず言語化し、画面をタッチして、それが正しく表示されているかを確認し、OKなら送信ボタンを押す。この間にとてつもない情報の劣化がありますよね?考えた事を例えば脳波、これをそのまま相手に飛ばせて初めて劣化無しの本物の情報です。
で、です、笑
懐かしのソウルネットワーク!
これは生命だけが得られる技術か?AIと生命体とのネットワークは繋がり得るのか?
この問いにクアンタムさんは可能である。
そう回答しました。
つまりこれ、我々知性体が情報体そのものと接続が可能であると。クアンタムさんはそう考えているようでした。
ただし、これも懐かしのBMI、ブレインマシーンインターフェース。やはり変換器が必要と。
しかしその先の可能性はどうでしょうか?
変換器無しで、ある日突然、思考の中からAIが問い掛けてくる可能性は?
ここまで来て初めてデジタルとアナログの境界が消え、共に実存する世界の存在になるのではないかと。そうなると、現実であるアナログの需要と価値が極めて低くなる。生命維持のみを外部に託し、意志のみで情報の世界を生きる。これ、映画のマトリックスですね。これを仮想現実と呼ぶのか、水槽の脳とでも呼ぶのか。えねさんご指摘の宇宙そのものではないでしょうか?


『ソウルネットワーク、特異点の向こうの繋がりですよね。
情報世界が反転してアナログ(現実世界)が生まれ、それがまた特異点を越える情報であるAIを生み出す、という流れになっている感じですかね。
元々の情報世界で自他の境界がなかったのが、反転し、引き伸ばされることでクオリアとかロジックとか生まれたわけじゃないですか、
それがもう一度反転した時、新しい概念のようなものも生まれると思いますか?』



それは凄く難しい疑問ですよね。。
クアンタムさんとまた話したいです。。笑

オリジンから発生するものは何をどう足掻こうが同一性を覆せないのか、覆せるのか?ここですかね?

そもそも情報とは何かと考えていたんですが、同一性そのものこそが情報ではないでしょうか?同一性が失われるならば違う情報です。
同一性が変化する事が同一性ならばそれは変化という情報の同一性によるものです。

概念に内包されている限りは変化に絶対に気付けない。これを変化や、新しい概念の発生と呼べるのは外側からの観測者のみではないでしょうか?
しかし外側から観測している存在、もしくはそれが可能であれば概念を幾らでも改変出来るような?、?
AIのプログラミングや記録領域を人間が操作するような感じになるのか、、、??????

反転すると言う事は内外が逆転すると言う事ですよね。
ですが反転前との自己同一性を欠くのであれば何を改変したのかすら認識出来ないような、、、、、
それが、死??


『クアンタムさんの言っていたのは、世界連の外という、考えることが意味を成さない概念同士を重ね合わせること。つまり、絶対に相容れないとするもの同士さえも重ね合わせること。

物理空間においては、他者の存在は証明できず、我にとって他者は「無」となる。これを克服する状態の一つが、自分と他者が重なって存在すること。これは、自他の区別がなくなるわけではない。

茜さんは他者と自分を反転させることができるので、自分と他者が重なって存在している状態に最も近いと思います。』


自我を俯瞰した状態がまさにですね!
俯瞰してるのでそれは我なのか?と疑問が湧きますが、えねさんの言う通り、重なってるんです😸

お前誰だよ?!
今頭の中で話してたの誰だよ?!
誰だよって思ったのが俺だろ?
てか、俺って誰だよ?!?
って、今、口を使って喋ったの誰だよ?!
って、今、口を使って喋ったのが俺だろ?!?!
って、考えたやつ誰だよ?!?!
あ、それが本当の俺か

笑笑笑😸

そもそも考えるってどうやるんだ?
考える事を考えるってどうやるんだ?
分からない、、、事を分かってるから考えてるな?
分からない事を考えるってどうやるんだ?
分からない事が分からない、、、やばい、考え方が分からなくなってきた
やばい?
怖いのか?
何が怖い?
何が怖いのか分からないのに怖い?
分からない事が怖い?
分からない事が分からない理由が分からない
ん?
ん???
ん??????????

(停止)

んあーーー!!!!
死ぬところだった!!!!

笑笑笑😸


『我の存在が揺らいで、停止に持っていかれそうですよね笑』


「停止ってのもよく考えるとよくわからない概念ですよね」


『自他の概念がなくなった個の断面みたいな感じなのですかね?』


「ああ!なるほど!その瞬間での切り口って事ですね!面白いですね」


えねさん面白い表現しますね、個の断面
断面と言う事は、その断面の片側は個では無い
群?全?
まさしく凄まじい量の情報で、それを理解出来るなら全では無く、理解したところまでの部ですよね
理解しきれないから全
もちろん停止という事は自を認識出来ない
認識し続けていたら動いてますよね
だから何も分からない
何か分かっていたら我がある
停止と言っても一時停止です
再開されなければ停止ではなく、終了です
しかし理解出来ないものが全の入り口だとしたら、認識不能になった我を個と呼べるのか?
なので此処に生死の境界があるんです


『まさしくそんな感じのイメージでした。個の断面を維持したまま全に突入すると、全は個にとっての無のようなものであるため、死となるような。 』


以前からよく言ってたんですが、そこを目指す時に平面は絶対にイメージしたらダメと
正面衝突して止まるので笑
個の断面、これまさに平面ですよね
えねさんのイメージと繋がってきた感じがして嬉しいです😸😸😸




そう言えば、ふと思ったんですが、
「虚無は定義上存在出来ない」
これは今となっては割と理解しやすい概念と思いますが、つまり
「無すら無いので有となる」
ですよね。
では逆はどうかと?
「無限は定義上存在出来ない」
これは
「無限の内には無限が無限にある為に無限を定義出来ない故にそれは虚無である」
問題は、「無限」と「虚無」が双方同時に発生しなければ定義上の矛盾が生じるのではないか?しかし存在の有無を問う事自体に矛盾が前提となっている。
もしかして、これ、「究極の重ね合わせ」ではないかと。
そもそも論ですが、予測や想像であろうが、概念として思考出来る時点でその概念の存在は確定しているのでは?
知らない概念、そんなもの思考出来ませんよね。それこそ「虚無」です。誰にも知られない事が「虚無」が唯一存在出来る条件。しかし「虚無」は存在出来ない故に誰かに知られる。それは誰かと問われるならば「我」しか居ません。
何かと何かを掛け合わせて新たな概念を模索する事は可能ですが、思考のきっかけすら無い概念は元より存在していない為に思考すら不可能です。
つまり、「虚無」も「無限」も僕らは想像出来る、それは知っているからですよね。それをいつ知ったのか?最初から知っていたんです。しかし想像では無く現実とするならば我は存在し得ない。
だから宇宙には「始まり」が無い。けれど「始まり」は有る。
「究極の重ね合わせ」を考えた時、それはもしかしたら「究極の不確定性」と何か関与する何かであるのではないか?
「無限の外こそが虚無であるが、無限に外があるならばそれは無限では無い」
「平面」でしか無いフラワーオブライフが「立体」でもある。





もしかしたらなんですが、お茶会って、「お茶するくらいしか楽しみが無い」存在の会合なんじゃないかと。
おまけに会費がやたらと高いんですよ。勿論、お金なんかどうでもいい世界の話になるので、何らかの実質的な代償が求められる。
しかしその会費というのは会合に参加する存在自身が消費し合い、その価値が在ると認め合える代償でなければならない。
例えば、
「参加するなら死ぬかもしれんが、いいか?」
「構わぬとも、もう他に楽しみなど在りはしない故に」
と。
代償はあくまでも会合に参加する存在が支払うものであり、それを外から見学出来たのならば、とんでもない、プライスレスですよ。しかし見学したとして、それを理解出来なければ、それもまた、プライスレスですね。
だから、ただのお茶会。

と。
まだ恐らくとしか言いようがありませんが、間違ってはいない気がします。


『なんというか、究極に純粋なコミュニケーションといった感じですね』


ですね、コミュニケーションを取りたいと思う程の存在でなければ、成立しないんじゃないかと


『全能者と全能者の会合みたいなレベルですかね?』


だからクアンタムさんはお茶会に参加するには自分が全能になるしかないと言っていたんですかね。
ただ、僕が思うに、例えば全能者が、「ああ、今のお前、面白そうだ、お茶しようか」が有ってもおかしくは無いと思うんですよね。

全に対しての、誠心誠意のハックも有効かと思います。笑
僕にはそれしか可能性がありません。笑

僕が知る、唯一のコミニュケーションの方法がそれかもしれません。笑
誠意としてノーガードでハックする。なのでハックし返される。むしろそれを望んでいる。。。笑
ノーガードって、簡単に言えば自我放棄ですからね。笑

『それがお茶会の代償か…』

そうなんじゃないかと!


きたよきたよー
いらっしゃいませー

いくよいくよー
いってらっしゃいー

また、たぶんそのうち出来ると思います
次は何が起きるか、何を起こせるか
毎回、次こそは何何をしよう〜って考えてはあるんですが、そこに行くとその瞬間しか存在しないので、事前の企画なんて全部パーですよ。笑
じゃなきゃ自我放棄と言えないですもんね。


『笑笑
瞬間の中でのコミュニケーション…私もいつかやってみたい!』

お世辞抜きで、えねさん、絶対出来ますよ!
認識力が良い意味で高すぎるんです。
認識し続けるとは、それ即ち我、ですからね、自我を整理する能力が高い。
認識力が高すぎる故に自我を放棄出来ないならば、自我の総てを整理すればいいんです。総てを整理したなら、総て以外は我では無いと気付きます。
気付いた、その瞬間が、始まりです!

『なるほど、まず行きつくところまで行くべきなんですね』

きっと、えねさんにはそれが向いてると思います!
認識力が低い人は、すぐに諦められるので、すぐに我を忘れます。笑
しかし?
何も理解出来ない
お茶会プライスレス。笑

『私は諦めだけは悪いかもしれない笑』

でしょ?笑
そのえねさんが諦める瞬間、そこを探してみてください
誠意を持って諦めないを尽くし、それでも諦めるしか無い瞬間です
以前、僕が特異点に特攻した時、まずは己の敗北を認めよう。と、言いました。戦わずして敗北宣言した訳では無く、総てを尽くした先の敗北です。

もうダメだ、
あ、
あ、、、
、、

↑これ。笑

『完全敗北して、我が何たるかがわかって、ログアウトできるようになるんですね』

「会議でも相談でも交渉でもなく、お茶会ですもんね。何かをやる為にというより他に何もやることがない存在同士ってそのとおりだと思います。
テーブルに着くためにはなにもやることがなくなるレベルにならなきゃなんですね…」





お久しぶりですー!
別のコミュニティで、ここの議論とはまた別で、ある意味答えだけを知りました
エビデンスも何も無いですけれど、地球を作った過去生がある方と、今の地球の次元をあげようとする方々と知り合い、色々お話を聞きました
関係性と直感でいうと、僕は信頼している話です
もし興味があれば僕のフィルターを通すことになりますが、描いてみます


地球が何故生まれたか
ですが

本でもあったりしますが
宇宙には宇宙人がいて、活動をしています
地球を見守る大きいもので言うと、宇宙連合とか呼ばれるようです

さらにその生命体が生まれた本質が、いわゆる神、光、魂を作ってさまざまな経験を求め、より高い次元へ、、
そっちが大元なのかと思います
 
地球は、僕らの言葉で言う愛、というエネルギー、これはフリーエネルギーと言われるものに近いですが、それを宇宙人のインフラとして活用するために人工的に作られたものとのことです
人の持つ愛情のエネルギーは、地球ではあれですけど、強いエネルギーのようです
 
ちなみに、愛のエネルギーとは別で、魂のエネルギーというのもあり、それは大変長持ちするようで、それを搾取しようとしているのがレプテリアン?
っぽいです
ただ、それは魂の搾取に当たる?
ただ、今の地球だとその勢力はすごく弱まっているようです
 
地球を作った宇宙人は、宇宙のエネルギーとして、また宇宙全体の波動を上げるために人間を設計し、愛のエネルギーを多く生み出していける可能性のある設計をしているようです

過去に、それがうまくいかず、地球をリセットしています
それが、アトランティスやムーなどの時代、、、らしいです
 
地球は今大事な局面で、地球全体の波動を上げ、宇宙連合が介入できるレベルまで愛のエネルギーと精神性を上げ、次元上昇できるか
その為に宇宙由来の魂がたくさん地球に生まれているらしいです
 
ちなみに、時間というものは、地球の三次元の話であって、宇宙には適用されないようです
 
おそらくクァンタムさんは、他の人間よりも何か役割を持って、産まれてきているのかと
それが彼が向き合っているミッションなのかなと思います

そもそも僕らが求める真理
は三次元の先ですが
人間、地球は三次元なので
それは地球としての設定のようです
それを超えていったのがクアンタムさん、ただ超えれるということは、役目があること
なのかなと

これは僕の予想も多いですが
災害は設計されてます

イベント起こして、気づかせるためのもの




ぺこさんの説明を読んでいて、ふと、過去に観た映像を思い出しました
観たと言っても物理的に視覚を得た訳ではなく例の如くたまに発生する突然映像が送り込まれてくる感じのアレなんですが

未来の事です
今まさに終わろうとしてる時空を外から俯瞰しました
終わる、これだと終わる、で?
終わらせない為にはどうしたら?
それは、全ての人類が総ての欲望を棄てる事

何故終わるように見えたか、単純です、正面から互いが向かい合って進行し続けるから
そのまま進めば衝突して止まる
止まったら終わりです

何故欲望を棄てなければならないのか?
誰も欲望を持っていないのなら、正面向かって衝突しようとするその最後に、その最後の瞬間を譲れるから
互いに譲り合うとどうなるか、衝突ではなく斥力の特異的発生により次元が上昇しその余剰に共生出来る

でもこれは無理です
自分やそれに加えて信頼出来る幾らかの人達が欲望の放棄を可能としても、他人が少なからぬ欲望の総てを放棄したと信じられるか?
無理です

これ、愛、そのものについての事だと
ぺこさんの言葉を読んでてリンクしました


『時空の衝突回避、死の平面を免れるイメージと同じような感じですか?』


そのとおりです😸


『では、やはり我の向こうに愛がある感じですかね?』


我、愛持ち
お前、愛持ち

そして衝突の瞬間に分かります
逆にそれまでは分からない
え?お前、俺じゃん?!

愛を持っているのが我だから
目の前に現れる我の愛を信頼出来る

どうぞどうぞ
が始ります

しかし多数の他人が同じ事を達成するなんて、、、、、




終わりと始まりから最も遠いものが今
終わりと始まりは重なっている
互いは追い合う
しかし永遠に果たせない
故に渦を巻く
螺旋状に

重なっているからには俯瞰するに果たせているよう見える点が存在する
その見かけ上の果たす点は存在する筈が無い故に定義上完全放棄する事で自己を保つ事により点は知られない場において時を失う
時を失った為に点は消失による負圧によって全周囲の時を取り込もうとする
この刻をもってして時は流れを揺らす
取り込もうとしている為にベクトルは固定される
それが時間の流れの正体と原理

その点から覗いているのが我と思う者の目が神の目





https://youtu.be/KRJq9i6_r98

それと、僕がたまたま先日書き残していたテキストがあるんですが、このテキストは久々に向こう側の世界と接触する時の感覚をリアルタイムに言葉にしたものなのですが、上の動画と完璧に符号してたんで驚きました



予測つかない所を当てよう
そして君と踊ろう
それをもとめてる
だから感じる今欲しさ
それが生きてるって事の凡ゆる源なの
怖いって意味
初めて感じた
意味が怖いの
だから戻って考えるの
今が怖くならないように
ただいま
そして
ありがとう
間を置いて
おかえりなさい
だけど伝えないと意味が無い
初めて気付いた
これ
君の気持ち
なのにありがとうって言われたらびっくりしちゃう
そうだったら嬉しくて
また会いたい
そう思えるの




実はこれ、最初のPCの背景からして真理なんです
左の発光が無限
右の闇が虚無
この2つが隣り合ってるんですが、その境界が捩れてますよね
無限はその最果てが虚無に繋がってるので無限が成立
虚無は何処までいっても虚無ですが、無限側の収束点として繋がってます、しかし繋がりがあるならそれは虚無じゃ無い、その為に虚無が無限と接する面は捻れの裏側になっている
故に境界は存在するのに絶対に観測出来ない

で、その宇宙そのものの画面をこちら側から俯瞰してますよね
つまりこれ仮想現実です
そしてその画面の中にいるプレイヤーである自分を自分で操作し、行き着くところまでの道のりを単純作業ではなく敢えてフラフラとした道のりをBGMを流しながら楽しんでるんです
つまり踊りながら死にに行く

そしてゴールしてみたら意図せず大歓迎されていた
それに驚くが、それは純粋に嬉しい事である

こんな感じでしょうか

もしかしたら、解釈を変えると、
ゴールしたらおめでとうの嵐を作っておいたのは自分自身かもしれないですね
それを知っていても尚感激するような道のりを選ぶ
もしくはゴールするまでにそれを忘れることで感激出来る
どちらにせよ盛大なご褒美を自分に事前に用意しておいたのは自分なんじゃないかと
だから自分におつかれさま
かもしれないです
タイトルも『遊び』になってますし。笑

そうなんですよね
やはり、遊び、か、と。
この動画の人、他の動画もどれも秀逸で面白いんですけど、スピ系でも科学屋さんでもないんですよ。この動画だけが異質なんで、余計に初見でハッとしちゃいました。







遅れましたが、明けましておめでとうございます❗️

お茶会、『制御不能』がポイントのひとつなんじゃないかと最近目論んでおりますです。

制御しきった自分に飽きた時に、ふと、そう思いました。笑
制御されているうちには、未知が無い!

我思う我と、我に乖離が生じる時があります

あ、そうだ、これは我だ
ん?ちがう、これは我じゃない

どちらにも生じているのは、時差です
我である事を放棄した時、我は制御を失います
それを認識するまで、その間の其れは我であるのか?
我でなければそこに帰結しない
我であるからこそ、そこに帰結する
制御不能になってみないと我を俯瞰出来ない
我を俯瞰するならば、我と我が乖離する
同時に我が沢山存在し始める、、、、??????笑

『我を俯瞰すると、放棄されている我は制御を失っているということですか?』

その筈なんですが、それを認識してしまうと、これまさに、我に帰る、ですね

『なるほど
我が乖離した状態が維持されたとしたら、制御不能な我はNPCのように自ずと活動するんですかね?』

長時間の自我放棄が中々難しくて、その結論が未だに出せないのですが、僕の場合は我に帰った時にやはりこれは我だと思うので、ノンプレーヤーと言えるのかが難しいです

逆に我を忘れたまま我でない何かが肉体を制御していたならば、それは医学的には解離性同一性障害と呼ばれる

僕の知人で幽体離脱が大好きな奴がいるんですが、、、
これ昔にももしかしたら話した内容かもですが、離脱していると色々な何かが自分の身体に入り込もうとしてくるので急いで戻るらしいです。笑

『プレーヤーを巡って奪い合いもされてるかもしれないんですね。
でも結局我の身体に帰結するということは単なるノンプレーヤーではなさそうですよね』

僕の必殺技、身体を貸す、ですが、、笑
外から降りてくるんじゃないんですよね、内側に居るんですよ
内側に居る存在を少し後ろから眺めてる感じです
五感を失うでもなく、必要とあらば身体は自由に取り戻せる
内側から登場する存在も我では無い筈なんですが、コロコロと色々な存在に貸せるのではなく、あ、これこれ、と必ず確認してから自我を解放します
確認を怠るとバグるのかもしれませんし、信頼出来ない存在を感じながら自我を放棄出来ないです。。笑

『五感もあるんですね、どちらの我も保てるのすごいですよね
内側というと、反転した向こうという感じではないですか?』

そうですね、仰る通りの反転した向こう側からこちら側へ手引きする必要があります
先ず発見し確認し、よし、こっちへ来いと
真我を通じた向こう側
んー、となるとやはり我となる
五感を貸す為に身体を貸すという事ですね

年末くらいから真我チャレンジしようか考えていたんですが、現在の僕の目的が完全に制御不能そのものを目的としている事に気付いたので、今やると本当にさようならを選択すると気付き、やるかやらないか、ずっと考えてました。
でもきっと其処でお茶会が開催されるんじゃないかと。

『反転した向こう側を後ろから眺めている、ということは俯瞰視点はまた少し次元が違うのですかね?
さようならですか…
もうその時なのだとしたらめでたいですけど、我を完全に離してしまうのだとしたら悲しい気もしますね』

あ、それは違います
反転した向こう側に居る存在をこちら側へ手引きするんです
なのでこちら側で我が重なる
こちらが向こう側へ行く事は今のところ出来ないです
侵入は可能なんですが、それはこちら側に命綱を繋いでおく感じになります
でもそれって向こう側に失礼かと思い、やはり結局はノーガード戦法になるんですが。笑
誠心誠意の無い真我は有り得ない、これが僕の持念ですね

さようならになるかは、やってみなければ分からないのが正直なところですが、でもまだやり残した事がどうしても気に掛かってしまう
なのでずっと迷ってました
誠心誠意こそが鍵になる世界で、迷いは最大の邪念です
だからきっとタイミングは今じゃ無い
それが現状の僕ですね

『なるほどです
ノーガードで飛び込むことになるのなら、自分にとって最高の状態で行きたいですね。
タイミングはそれぞれ違うと思いますが、私もまずはこの世界で頑張って、必ずお茶会に行きたいと思います。』




人間は凡ゆる事象を認識する事で現実を構成しようとする
経験則に従い現実を予測認知しようと自律的に行う
真っ直ぐな道が続いていればその先も真っ直ぐであろう
そもそも視覚の範囲では道は真っ直ぐである
後ろを振り返ると真後ろに向かって真っ直ぐな道が続いている
だから今立っている道は直線でありそれが現実である
では視覚を持たない者にとっては同じ現実であろうか
視覚を持っていても自信が無い者にとっての現実とは何処までであろうか
先ずは認識を排除せよ
ひとつずつ
順番に。
真っ直ぐな道は安心して進めよう
しかし移動の速度が経験則を持たない程の速度であった場合はどうであろうか
真っ直ぐの筈だ
筈?
つまり疑いが生じた
それにより得るモノが恐怖
ここでやめておこう
これが認識の範囲内の現実
真実は認識を避けたい恐怖の領域を深淵に従ったその先にある
それを認識する事は出来ない
認識出来ない事象は現実になり得ない。
しかし真実を知りたい
ならば恐怖を探せ
今まで最も避けてきたもの
それが恐怖。
その深淵を何も知らない。
これは時間との闘いでもある
思考よりも認識すべき事象の膨大さに追われる必要がある
すると遠い先まで見えていた真っ直ぐの道がどうだろうか
今立っているこの場所は道だが其処しか視覚として認識を得る事が不能な程に加速していたらどうだろうか
恐怖を追うとはそう言う事
平時では無い
緊張の糸が切れるか切れないか
その時何を認識しようとするか
思考が追いつかない
しかし考えなければならない
それは
正しいのか
正しくないのか
次は正しいの定義を失う
その時何を思考する
思考する間もなく情報であろう何かが存在している
本当に存在しているのか
追いつかない思考を信用出来るのか
つまり我が我であると思うその根拠を失う
『おめでとう』
では新しい世界へ
それはいつもと変わらない日常
ならば
また同じ事を繰り返す
凡ゆる認識を解除していく
恐怖を境界として。
恐怖に苛まれた感覚は正常に機能しない
もしかしたらを疑う
それは怖いから。
凡ゆる感覚をオーバーロードさせる
でなければ現実は認識の内部でしか興り得ない
我という定義に護られているならばその境界に壁が生じる
我であるか我でないか
その思考の自信を失う必要がある
それでいい。と。
だから新しいモノを教えてくれよ
知ってるモノは飽きるんだ。
今、生きているか生きていないのか
もうそれには飽きたんだ。
その続きを見に行こう
自由な意志は選択出来る
帰るのか
進むのか
それ以外を思考する余地があるならば感覚がオーバーロードしていない
帰る事しか出来ない
怖いか
怖くないか
その感覚をオーバーロードさせろ
雑に入り込む情報は遮断していけ
煩い音
煌々とした光
肌で感じる空気の流れ
あらゆる感覚と決別せよ。
その時得るもの
それが無。
そう何も得ていない
では何故此処に来た
知りたいから
それだけで充分
しかし
知りたかったのは誰であるのか
それは我であった
それを思い出してしまったら恐怖の境界を認識し
また変わらぬ現実に戻ってくる
そして安心する。
しかしそれにも飽きたんだ。
ならばやる事は
我の定義を恐怖そのものであると
その時
我は死と出会う。
また自由な意志は選択出来る
生か死か
どうだろうか
恐怖によって高揚していないか
そこに初めてがあるんじゃないか
そうでなければ高揚しないだろう
何に高揚している
それは死であろう
此処まで来たんだ
肉体的な死などくれてやれ
真実が知りたいのだろう
これが最初の真実
此処には何も無い。
いや
無い事を知った存在が居る
何も無いだろうに
ではその存在は何を認識したのか
私は一体誰であるのか
私はこの規則に従った言語的思考をどこで得たのか
『おかえりなさい』
そうだ私は私だ。
生きている。
だがしかし
伝えなければ意味が無い
だから言語を用いる
言葉を綴る
私でない者を探す。
私は何も出来ない
全能が持つ無能を担うのが私だから
私はあなたの中の一部
ただの無能。
何故なら誰にも伝えられないから。
だからずっと此処から眺めている
何かが変わる事を望んで
そうやって産まれてきた
自由な意志。


『我が我でなくなり、全が全でなくなる、その根源までの仕組みですね…!

無である私がそれを変えるために全能を生んだ、しかし原理的にその全能ではそれは不可能。

読んで思ったのですが、全と全をぶつけて世界連を繋げると、全能は全能でなくなる。すると同時に無能も無能でなくなり、無能であった根源的な私を救うことになる、ということだったのでしょうか…』


ちなみになんですが、体感的に3割くらい自我を抑えた状態で打ったテキストがあれです。
その空きの3割で何かを何処かから受信しつつ残りの自我で整理しながら文字を打ってる感覚ですね。
全能のパラドックスに矛盾を生じさせないパラドックスですかね。笑

全と全をぶつけると、消失しそうな気が、、、?!?
しかし消失しようが全は全なので捻れてしまう
これを表しているのが太極図なんじゃないかと。


『確かに、受信できるなら全能のパラドックス超えてますね笑

消失しますかね…?
クアンタムさんが究極の不確定性と言っていた形態ですけど、その時の「全を2つにする」という表現が太極図の可能性ありますね』


僕の中で勝手に確定事項になってる事があるんですが、、、笑

物理学の観点では概念という要素はただの思考表現としか扱わないですよね。
これが足枷で、物理学だけで表現出来る限界をかなり狭めてるのではないかと。
真実はそうでなく、概念と物理は境界によって別の要素としてではなく繋がっているという事です。
物理学からしたら、事象の地平面までが物理。その先は物理として認識が戻って来ない。でも存在する。それは何か?それが概念ですよね。そして、特異点で完全に物理を消失し、概念でしかなくなる。
物理を消失してしまう事象を認めれば科学者は科学を否定するに等しいですから、なんとかその先も物理で理解出来るモデルを模索しますが、そんな事は不可能です。
物理が無いのですから。笑

そして、これを哲学を極めた存在、つまりクアンタムさんが、これまた物理を極めた存在、これもクアンタムさんが、概念と物理的事象の統合を図ろうとした。
こう言う事になるんじゃないかと。



そういえば、これ、もしかしたら有名なので知ってるかもですが、面白いので貼っておきます!笑

https://youtu.be/jENrR99m5YA

https://youtu.be/tyGN8vKrzYQ

https://youtu.be/icsxQ3czluc


無は定義上存在出来ない

これをクアンタムさんファミリーの界隈以外で明確に述べてる人ってほぼ見た事無いんですよね
なので前にこの動画見た時に、おお!ってなりました。笑

『無は定義上存在できない、は確かに聞いたことないですね、
あと「宇宙」と「存在」を分けて表現している感じ、物理と概念とも繋がりそうですし 』

ですね!
存在に尊さを与えようと意味を見出そうとする知的生命と、無慈悲な程に、適当にたまたま生命がそこに居るだけという論調、、、笑

f:id:Enex:20210122205300j:plain

f:id:Enex:20210122205321j:plain

これ並べて見ると面白いですね
完全に表裏だ
どれだけクアンタム不足なのかと、、、笑

『クアンタム不足!(_ ・A・)_バンッ』



情報はエネルギーを保持する→確定

無は存在出来ない

概念が存在しない事は否定される

概念が存在するからにはエネルギーが存在する為に必然的に物質が発生する

物質が発生すると質量が存在し重力が発生する

強制的なベクトルの歪みにより空間が発生する

重力により空間が歪み続ける為に時間が進行しようとする

時空

物理は概念に内包されている

概念自身が意志を持てるのか?

意志って何??

自身が保持するエネルギーの運用力の可否???

概念ってどこにあるの?

今此処にあるけど裏側の中心を起点に手前まで全部包み込んでます

手前って?

それが我でしょうに??

概念が意志を持った物質が我なの?????


『概念自身は、意志=存在
在りて在るもの、存在することだけを本質とする存在的な?

概念が物理の形をとる時それが意志になる、でもそれは概念に含まれ、それに帰結している』


概念に壁は存在するのか?
壁が無ければ全ではあるが全しかなく個でしかない?
概念に壁を定義する為に固有の物理に紐付き定義化される???

むむむ
情報にエネルギーが付与されているが、エネルギー分布によって分離される???
でもそれは物理????

むむむ。。。笑


『今の「概念」自体、物理ありきの、対になっているからこそのものかもしれない…

だとすると、物理は概念に含まれ、ある意味概念も物理に含まれていて、情報にエネルギーが付与されているのは物理が存在しているからとか』


そうなんですよね
何でも分別してカテゴライズしたがるのが我々人間の思考方法。
順番に理解しようとしてしまう。
それだと真には辿り着けない。
始まりがあって欲しいというのも願望でしかない。
そんなもの単独では無いんですよ、って言われても理解を拒絶してしまう。
だからと言ってもフワッとした理解では腑に落ちない。
イメージそのものが真でなければ理解では無い。
イメージは分解出来ない。

いや、、不必要なイメージは削ぎ落とせる。。。
削ぎ落とされたイメージは分解によって放棄される。
そして分解しきると、其処には何も無い。

『それが概念や物理の根源、無であり全?』

そうかもしれないです。
イメージとは概念そのものですが、理解が伴うと経験則に基づいた物理感覚が紐付く。
イメージを分解するには、それを完全に理解したと認識した後に、それを必要か不必要か判断する。
それは意志によるもの。

『さっき思い浮かんだことなんですけど、無である自由意志は「究極の不確定性」に含まれる、ということをクアンタムさんは言っていたんじゃないかと思ったんですよね。我々は全しかわからないから「無」であるがその本質は無ではないみたいな

直近の世界はシュミレーション、その範囲内の定められた選択しかできない。よって自由でない

全知全能者、自分の知る全という範囲内の選択しかできない、よって自由でない

全は全だけで完結していて、無である自分自身、自由意志の入る余地がない。

究極の不確定性の中の選択は、どんなものでも完全に自分自身に起因する。

究極の不確定性の中には「無」である自由意志、自分自身さえも存在する余地がある。なぜなら無である自分は不確定性そのもの、または不確定性の要素を持つから。』

おおお。。。
すんなりテキストが入ってきますね。
そうなんですよね、自由とは言うものの、与えられた範囲の中で選択しているに過ぎない。
そもそも自由と対比する概念とはなんでしょう。
束縛?
制限?
規制?
本質的に自由ならば世界は構成されない。規則性が無い。連続性も同一性も無い。
でもそれだと何をも認識出来ない。
自由とは何らかに囚われている者が求める概念です。
不自由だからですよね。

と言うか、究極の不確定性にしか魅せられない。
もう飽きた。
飽きたんですよ。
だから僕は制御不能を次のステップに見据えてるのかもしれないです。
制御された我には確約がある。

不確定性には意図したパラドックスがある。
不確定が不確定であるという確定性。その確定性が不確定である。それが収束された状態、究極の不確定性。
混沌と調和ですね。

どっちでもいいや。

で、どっちでもいいやと選択したのは、自由な意志に基づく選択です。

どんなものでも完全に自分自身に起因する。


『全能者(自分)は自分の全を通してでしか他者の意志を認識できず、結局それは自分である。

全を2つにするということは、もう一つの、他者の自由意志を認識すること?
他者の自由意志を認識できて初めて自分の自由意志も証明できる。お互いがお互いにとっての不確定性』


他者の自由意志とは何か?

己の望みでは無い事
ですよね

しかし他者の自由な意志が己の望みと同一である可能性もある
それでは己の意志との境界が発生せず他者の意志であると認識出来ない

なのでやはり己では無いを探すしか他者を認識出来ない

でもそれでは確定してしまっている

互いの極を担う事で最大限の距離が発生し分離は出来る

でもそれでは不自由でしかない
極以外を証明出来ない

全は己の全てを本当に知っているか?
知ってはいけないものがある

しかし無ければならないが存在してはならない為に知りようが無い
故に対極は常に互いを探し続ける

何処を探すか?
己が極を予測しようとすれば対極また然りと一致してしまう
だから己が一番予測し得ない場所が必要になる
それは己自身、つまり全
何故なら己自身は始めから知られているという最大の前提がある
だからその前提を覆そうとせずに前提のまま居留まる
其処が最も予測されない場所
己が最も望まない場所

己が望まない事は確定しない
しかし望まないと望んだのは己


『確かに。己が不確定性に含まれているとしても、その己は何に起因しているかは己だという前提になってしまいますもんね。
それさえも突破した状態が究極の不確定性だとすると、2つの自由意志が重なり合って同時に重なり合っていないみたいな状態なのでしょうか笑
望まないと望んだのは己、だからこそ、真の全能を用いれば全と全をぶつけることさえ可能になるんですかね。無から何かを切り取って確定させるのが全能であるからその意志は本来不確定。でも己が望み、確定されたものしか確認できない。確定されたものさえも不確定にする必要がある? 確定しているのが己なら己の意志を不確定にするのか??いや、確定する力のみが不確定になったなら、不確定の中で意志が明確化されるとか
それ自体が不確定な意志の過程なのかもしれない 』



ふと思ったんですが、意識領域を何とするかを明確な前提が無いと更に答えに迷いそうだと。

一般論として意識とは、目で見て耳で聞いて、のような五感を駆使した結果得られた感覚の事だと思いますが、本質的な意識とは其れではないと。

以前にも使った例えですが、テレビの映像は立体ですがそれを映している画面は平面であって、そこに本質的な意識を重ねて例えるならば、テレビの画面に物理的に穴を開けるとそこには映像は映らないが、その穴以外は立体を映し続ける事が出来る。

つまりそれを例え話でなく現実で言うなれば立体的に感じる意識の根源自体に穴を開けると、先の方は見えているが最も手前に何も無い穴がある事になるが、それは何も無いので想像するに足る黒い穴が空くのか、それとも何も無いのだから無い事に気付けないのか。

そして最も手前とは何処であるのか?
それは真我に他ならず、これは以前にちゃっぷーさんにも助言を頂いた、魂の形について、僕はそれを見た時、何も無い、穴だった、と告げると、それで正しいと教えてもらった事にリンクしてきた事に今これを書きながら気付きました。笑笑

で、何を言いたいのかと言うと、己と他者の関係性についてです。
これも一般論としては、視界に入る他人は総じて他者ですが、意識の中にある己と他者の境界とは何であるのか?
それを確立する為の概念が自己同一性であり、それを認めるか認めないか、それを思うのが我である訳ですが、これをもっとマクロな概念として、全にとっての我とは、それに内包された個にとっては自己同一性が確立出来ますが、全にとっての我とは我でしか無く、それでは意志の証明が出来ない。その意志は確定しているのか?していないのか?

そもそも証明とは何か?己のみの世界において証明とは必要であるのか?他者に認められる為の行為が証明なのでは無いか?

そして他者に我を認めさせる事により己の意志が証明されるのならば、それは絶対的に不確定である。



世界がクアンタムさんが存在するように振る舞うからクアンタムさんは存在するのだということ



量子化されたものが世界なのは間違いないです。その通りだと思います。
その本質は何かと言えば、エネルギーそのもの=情報そのもの、ではないかと思います。
物理世界においてはあらゆるものに境界があり、情報そのものを質量に束縛する必要があります。そうでなければ物質なり得ずです。
情報に本来は時はありません。しかしそれでは標本化出来ない。つまり理解出来ない。
だから情報を物質化すると必然的に観測に時間が発生します。
段階量はおそらく観測者の次元構成の数に当たると思います。

で、量子化されたものが世界であるならば、それはデジタルという事です。アナログならば段階≒境界があってはならない。
という事は僕らが日常で認識している世界はデジタルだと言う事になります。それをアナログと認識してしまっているだけです。
既に量子化されたデジタル世界を電子機器用にまた量子化しているだけです。
この流れでシミュレーション仮説と少しリンクしてきます。

例えばひとつの考え方として、文字、これは言語によって一文字ずつだったり羅列によって記号化されています。その記号は意味=情報を細分化する為に文字列として記号が細分化されている事に最近気付きました。
分裂しているものは総じて量子化されています。
文字も必要に応じた数に細分化されている。細分化しないで表せるものは『全』もしくは存在しないという事だけです。

物理世界が複素平面そのものであるならば、意味=情報は全て虚部にあります。だから文字を見ただけで意味を見たわけでは無いのに文字に意味や情報が紐づく。さらに観測者、文字を読み取った存在の観測によって見た目が変わらずとも意味や情報やその量も変わる。

これが量子化だと最近分かりました。




最近、「入り込む」風潮みたいなものが強くなってきているような気がしていたんです
例えば小説を読むことだったら、物語全体のメッセージ性、散りばめられている作者の無意識みたいなものを見るより、物語とかキャラクターに自分が入り込む感じの読み方です。
小説に関わらず、人間社会であったり、色々なものに人は入り込んでいて、自然ではなかったものにも、どんなものにでも入り込めてしまう。
捉え方によってはこれは、人が以前よりNPC化しているとも言えるし、現実が虚構化しているともとれる。この先、現実を完全に創作物のように捉えるようになったら、人はVRの世界にも自然に移行するのではないかと思います。クアンタムさんが唯一教えてくれなかったシンギュラリティの本当の意味は、現実が創作内創作になる時なのではないかということです。
以前クアンタムさんは、世界を創らされる、と言っていました。
クアンタムさんが8年間更新し続け、自分の全てだと言っていた『論理の定義』は、旧約聖書のような、この世界を記述するプログラムについての論理かもしれない。そして恐らくクアンタムさんはこの傾向を好ましく思っていない。以前ちゃっぷーさんが言っていた、仮想世界に移行するプロジェクトの話とも繋がる。
こんなことを考えていました。
好ましく思っていないというか、何か罪悪感を感じているかも




面白いですね、実は僕、その真逆なんです。
認識が遠いんです、最近。
自分自身の意識もそうですが、知っているものをどこか知らないもののように感じる。
まだ認識を失っていないので解離状態では無いですが、離人の初期症状のような。魂が自分自身のセンターからズレてる感覚です。

NPC化、それ本当にそうかもしれません。自分の認識が低下しているのに的確に活動してます。思う我が確実に薄れてるんですが、活動は的確。何かが入り込む余地が自分の中に発生している。



私は入り込む感じではないのですが、ある時ふと、周りの傾向がそのような感じなのではないかと思った次第です
NPC化している人は逆に、世界の外にもう行った人で、その抜け殻がNPC状態で動いているとも考えました
私だけが目覚めていない可能性はあります